ベンゾジアゼピンの離脱、減薬・断薬、その道のり

ベンゾジアゼピン系薬物を減薬、断薬へ至る日々を綴っていこうかなと思います

大寒を迎え、寒中御見舞いを申し上げます。

皆様は年末年始、ゆっくり過ごせたでしょうか。

今日は雑記です。





●訂正●

過去ログにて、何度か「スリップ」という言葉を使っていたのですが、この方のブログを読んで納得するところがあり、今後軽々しく使わないよう訂正したいと思います。

アルコール依存症で言うところの「スリップ」と「ドライドランク」について

blogs.yahoo.co.jp

>したがって、飲酒を止めている(断酒している)期間が続かないうちにまた飲酒している場合には、スリップなどとは言えないのです。
>飲んだり止めたりを繰り返している状態も、スリップとは言えません。



引用させて戴きましたブログを読んでも思ったのですが、自分をこんなに親切に慮ったことがあったかな、とふと感じました。

親切、という表現はちょっと違うかも知れませんね。

えーと、真摯に向き合うというのか、丁寧というのか、非常に温かみのあるというのか。

言葉ではうまく云えないのですがハッとしました。



去年にベンゾジアゼピン系薬物の断薬・減薬を考えようになり、それからモヤモヤしていたものも少しずつ表面化してきました。

現在、私は、今在る社会について、

例えば電車の中に、体に這った見えない虫をとろうとして必死に払い落とそうとしている(昔の描写でいう、典型的なアルコール依存の)人がいたとするなら、

社会にとって「その人が本当の虫を見ているかどうか」はどうでもいいことなんだな、と感じることがあります。

『今見ている(感じている)世界の感覚が正しいのかそうでないのか』なんて、自分自身にすら価値のない問いなのかも知れないなって。


勿論それは仕方がありません。
社会という構成で考えれば限のないことが沢山あります。
でも……自分にとってそれでいいのかとも思います。


私は激しい離脱症状が出てくると、大体薬が切れたせい、で嵐が去るのを待ちます。

BZDは特殊で、離脱時の苦しさが記憶に残らない、という情報も思い出します。

でも……精神安定剤を飲んでまで、もしくは、減薬を頑張ってまで生きなきゃならない理由って何なのでしょうか。


こういうのがBZDの面倒臭いところだなと思います。


元々の、形而上学的なことに興味のある個人(私)の性質が関係して、根底に物質依存があるからこういう風に考えるのだと思いますが。

薬の離脱によって、生まれついた淋しさを何度も何度も(考えることによって)自傷するのは本当に身の切られる思いです。

ということは、他にも現実問題(家族関係や、仕事のこと、親・子供のこと、ギャンブル、お酒、薬物等々)を抱えながらBZDの離脱症状で苦悶している方も多くおられるんじゃないかな、と。


じゃあ、今まで「薬のあり・なし」で幸せかどうかを考えていましたがそうではなく、また、自己・他者の隔たりなく、所謂アダルトチルドレンの「虚無感」についてどう考えていけるだろうか、と考える時が戻ってきました。


それが良いのかは分かりません……。

めくらはめくらのままで、お酒を浴びるように飲んで野垂れ死ねたらそれはそれで幸せだと思うのも間違っていないと思うのです。

あえて蓋をした問題を蒸し返す必要もないのです。


でも……身を刻まれて生きて来て、藁をもすがる思いで精神安定剤を飲んでいくばくか過ぎ、そこへ処方薬依存で喘ぐなんて……うーん。

BZDの問題は、もう一つ、ここにもある気がします。

お酒やドラッグ等は、古い言い方ですと、自分で望んで破滅していますが、処方薬は「良くなる」と信じて飲んでいたのに(実はそうではなかった)、という不信を目の当たりにした時、自己が崩れ落ちていく感覚になった方もおられるんじゃないでしょうか……。



今回引用させて戴きましたブログを読み、もっと自立して、もっと客観的に、そしてもっと慈しんで生きていけるのではないかと感じるところがありましたので本日ここに記します。


いつも最後まで読んで下さいましてありがとうございます。
乱雑な長文をお許し下さい。

大変寒さの厳しい時期です。

寒いというだけで鬱は悪化しますので、どうぞ何方様も本当にご無理のありませんように。

一緒に暖かい春を待ちましょう。